今や日本文化の象徴ともされる「茶」の世界。御夏目の蓋をあけ、抹茶を茶杓2杯、茶碗に添える。茶釜から湯を注ぎ入れ、茶筅で点てる。キメ細かな泡立ちが茶のほろ苦さを包み込み、何とも調和された味へと生まれ変わりましょう。そんな一服の茶に込める主人の心を禅語で「釣(ちょう)月(げつ)耕(こう)雲(うん)」と表しております。「一点の月を釣る心で湯を沸かし、雲を耕す如く茶を点てる」。何とも奥深しい例えなのでございましょうか。

そもそも日本人にとって茶とは「日常茶飯事」という言葉がございますように生活の中で欠かすことのできない飲料品のことでございます。人類が茶を利用し始めてから2000年余りの歳月が過ぎますなか、世界中の歴史文化や社会情勢の変化によって、茶は多様な姿で人々の生活に根付いて来ました。そもそも茶とは、ツバキ科の常緑低木の若葉を採取し、製した飲料のことで、中国南西部の温熱帯地域を原産とし、日本国内の名産地として京都(宇治茶)を筆頭に、静岡茶、福岡(八女茶)などが著名に挙げられます。日本における茶の歴史は古く、奈良時代中期の第四十五代聖武天皇(724-749)のころ、唐より仏教法具の一つとして茶が伝来し、薬用として貴族文化に広まったのが始まりでございます。『正倉院文書』や平城京跡から出土した『木簡』にも「茶」の文字が記載されていることから、奈良時代には茶を嗜んでいたことが伺えます。当時の茶と申しますものは、蒸上げた茶葉を煉瓦状に圧搾し、発酵させ硬く乾燥させたものでございまして「磚(たん)茶(ちゃ)(団茶)」と云います。之を香り高く焙煎し、粉に挽いたものを熱湯で煎じて飲んでいたのであります。この磚(たん)茶(ちゃ)の名残を、土佐国(高知県大富町)の「碁石(ごいし)茶(ちゃ)」で感じることができます。また、茶が薬用として珍重されてきた話しは、栄西禅師の『喫茶養生記』(1211)に「茶は養生の仙薬なり。延命の妙術なり。山谷之を生ずれば其の地神霊なり。人倫之を採れば其の人長命なり。天竺唐同じく之を貴重す。我が朝日本、亦嗜愛す」とありますように、当時の茶は薬用的な位置付けが強かったといえましょう。そのため、現在において「一杯の茶」ではなく「一服の茶」と云いましょうに、薬を服す言葉が使われているのであります。

茶の国内栽培が本格化したのは、平安時代に入ってからのことであり、伝教大師(最澄(さいちょう))が805年に遣唐使として唐より茶種を持帰り、比叡山麓坂本に植えたことから始まりまして、次いで806年に、弘法大師(空海)が茶種と石臼を持帰ってきたことに続くのでございます。『日本後紀』弘仁六年四月二十二日の条に、第五十二代嵯峨天皇が「琵琶湖西岸の韓崎へ行幸した帰途、大僧都永(えい)忠(ちゅう)が茶を献じた」(815)と記されております。しかし、平安時代は藤原摂関家の栄華盛る時代でございますから、遣唐使が廃止されますと藤原好みの「国風文化」が華開く訳でございます。そうなりますと、たちまち唐文化の流行は終止符が打たれるようになりまして、奈良時代から続きました「磚(たん)茶(ちゃ)」は国風文化のなかで消滅するのでございます。以降、宮中行事の一つである春秋二度の「季(きの)御読経(みどきょう)」に限りまして、宮中に僧侶を招き、国家安泰を祈願する法会で「引茶」と申す喫茶の接待がございましたので、この時しか茶を伺うことはなくなりました。その後、室町時代に入りますと、足利将軍家による宋との勘合貿易が始まり再びの中国文化が入ってくる訳でございますが、従来の茶の概念と異なりまして浙江省産緑茶の粉末を茶筅で「点てる」という嗜好が伝わって来たのであります。この点てました茶は、あたたくまに武家文化に広まりをみせましたから、各大名の独自思想をもった設えで茶を楽しむ「茶の湯」志向が高まったのであります。特に足利将軍家と懇意な関係となりますと、勘合貿易からの輸入品を多く求めることができ、それを客間に飾り付けることで大名家としての格を見せ付けたのが設えの始まりとも云えましょう。何とも見栄っ張りなところが武家らしいこと。

その後、室町時代後期から安土桃山時代へと入りますと、豪華絢爛に輸入品を飾り付けた喫茶文化から、簡素な日本工芸の品々を設えに用いるようになり、不足の美を求める「詫び寂び」の茶の湯が考案されるようになったのであります。そもそも詫び寂びとは、活力が抜けるような心細さを「詫びしい」と表現し、正気が失われた物足りなさを「寂しい」と云ったもの。未完成なものに価値があると考え出したのも、見栄っ張りに衝動買いし続けた末、豪華絢爛に飽き始めた大名が原点回帰した表れが詫び寂びに込める心なのだと思うところであります。ですので、公家からみますと、武家の御役目は国の礎となる民百姓を命懸けで守ることですから、己の私欲を見せびらかす豪華絢爛な茶の湯ではなく、民百姓の厳かな暮らしを乖離見る茶の湯こそが、武家の茶というものだと云えましょう。このような茶の湯改革に大きく貢献した者が、僧侶の茶人村田珠光、堺衆の茶人武野紹鴎と千利休でございます。

村田(むらた)珠光(じゅこう)は室町時代後期の茶人でございますが、元は大和国(奈良)称名寺の僧侶であり、山城国(京都)大徳寺で一休に学び、茶の湯に禅味を加えた「心の文」の一文の如く、詫び寂びの心を説いた点茶法を始めた者でございます。この村田珠光の心を受継ぎましたのが武野紹鷗(たけのじょうおう)でございまして、内大臣の三条西実隆の元で歌学を学び、公家文化のどことない表現力の美意識を詫び寂びの茶の湯に取り入れたのでございます。これにより、公家、武家の嗜み作法の一つとして「茶道(抹茶)」が確立していったのであります。後に、武野紹鷗(たけのじょうおう)の弟子であった千利休が継承し、詫び寂びの茶の湯に御遊び心を限りなく拭い捨て、主人と客人が互いを思いやる究極の引き算の世界を表現したのであります。また、千利休は茶事の流れのなかで、茶を美味しく召上ってもらいたい心から「修行中の禅僧が温石を懐に抱いて体を温め、空腹をしのいだ」と云う話を基に、軽い御食事を考案し、之が後に「懐石料理」と呼ばれるようになったのでございます。しかし、千利休は関白豊臣秀吉の茶頭として仕えておりましたが、豊臣政権下の中枢にいた利休は、秀吉との茶の湯をめぐる理念の違いを発端に生涯を閉じることになったのでございます。利休没後、小堀遠州や片桐石州らが武家相応の茶の湯をさらに確立し、江戸幕府の公式儀礼までに至らせ、また同時期には利休の孫にあたる千宗旦が利休の心を継ぎ、千家流の茶道を公家、武家、僧侶を始め、民衆まで幅広く伝えたのであります。その後、宗旦の子らを分家させ、茶道流派「表千家」(宗旦第3子宗左の家系)、「裏千家」(宗旦第4子宗室の家系)、「武者小路千家」(宗旦次子宗守の家系)を成立させたのでありました。

時代も江戸後期となりますと、日本禅宗は山城国(京都と滋賀の県境)の天台宗総本山となる比叡山延暦寺の一人勝ちと云った現状となり、その他の禅宗は弱体化の一途を歩む状況でもございました。そのため、臨済宗妙心寺派と長崎の華僑の僧侶たちが禅宗復興を願い、明の福建省福清より高僧を招いたのであります。承応三年(1654)、明より渡来した隠元隆琦(いんげんりゅうき)禅師(大光普照国師)は新たに日本黄檗宗を開祖され、宇治に総本山となる黄檗宗萬福寺を創建されたのでございます。黄檗宗の法要には「茶(さ)礼(れい)」と申しまして、「茶で始まり、茶で終える」といった煎茶作法があり、之が由来致しまして、平安時代初期に消滅した「煎茶」が再び歴史の上に復活した訳でございます。そして、黄檗宗の僧侶であります賣(ばい)茶(さ)扇(おう)が煎茶を広く売り歩き、庶民の暮らしに煎茶を普及致しましたから、今や日本茶と申しますと、まず「抹茶」がございまして、次に「煎茶」が並ぶようになったのでございます。

このような長い歴史背景のなかで、日本茶は「碾(てん)茶(ちゃ)(抹茶)」と露天の「煎茶」、覆(おおい)下園(したえん)の「玉露」と区別されるようになり、碾茶は茶葉を蒸してから乾燥させたものを申し、この碾茶を石臼で挽いたものを抹茶と呼んでおります。本来、主人が客人をもてなす直前に碾茶を左回転で挽き、茶を点てたもので、濃緑色の「濃茶(主)」と青緑色の「薄茶(副)」がございます。濃茶は茶杓に山3杯を一人分に少量の湯を注ぎ、茶筅で練ったもの。光沢をまとった濃緑色に魅了されながら茶の深味を堪能致します。その一方で、薄茶と申しますものは茶杓1杯半を一人分とし、柄杓半杯の湯を注ぎ入れ、茶筅で攪拌したものでございます。この御点前の仕方にも流派様々でございます。こうした御点前をなさる茶人には、必ず信頼できる茶師と申す者がいるのでございます。千利休の友人でもあり、茶道文化を支え続けてきた茶師こそ三星園「上林三入」でありまして、藤原摂関家を始め、関白豊臣秀吉、江戸時代初期には徳川将軍家の御用茶師として「御茶壺道中」の総元締役を務めた茶師でございます。上林家には千利休との関係を示す手紙が今も残っており、ここには「我ニ明日宇治へ参リ内々に被仰付の茶之儀、上林所へ可も申入の為其如此の、かしく、四月十一日、宗易」とある。利休好みの茶は上林三入が支えていたことが伺えます。

そして、利休が宗易の名を用いていることから、秀吉が関白就任した直後のものでございまして、秀吉が天下人となったことを世に知らしめる策の一つとして、大阪城では「百日茶会」が催されたのであります。この一切が記されておりますものが『利休百會写』と云う日記でございまして、ここには「天正十五年、亥ノ八月十七日始まり、諸大名は翌十八日朝、毛利輝元一人から招かれ、徳川家康で終える」とあります。茶事に用いりました御道具一切から懐石の内容までもが詳細に書かれており、当時の大阪城での様子を伺える貴重なものだと云えましょう。

どうしても、宇治の茶について語りますと、千利休やら、豊臣秀吉やら、徳川家康なんぞの名前が上がるものでございますが、そもそもは藤原摂関家であります近衞家が大変所縁深い土地でございます。藤原時代の盛栄を極めました内覧藤原道長が「宇治別業(別邸)」を造営して以来、その嫡男でございます関白頼通が永承七年(1052)に「平等院」を建立するなど、宇治は藤原摂関家と密接な関係をもちつづけたのでございます。後に、鎌倉時代になりますと、藤原摂関家が近衞家と九條家に分立致しましたので、以降、近衞家の「荘園」として歩むのでございました。江戸時代初期の関白近衞信伊が上林三入に宛てた手紙には、「宇治茶壷参候、口をきり可申候、さかな一種なくてはすまぬよし其方御持参候へく候、かしく、茶うけには無てもすむか有はよし、酒に肴はほしきものなり。三日。囊斎」とある。これは、囊斎を茶の湯に誘ったものでありますが、宇治から茶が届いたので、酒の肴と茶うけを用意して御越し下さいというものが上林三入には残っているのです。宇治茶の歴史は藤原摂関家があってこそのものでありましたが、江戸時代中期になりますと禅宗高僧の隠元禅師が来日され、宇治に黄檗宗総本山萬福寺を創建するということで、寛文元年(1661)に江戸幕府に無理やり収公された訳でございまして、その換地が摂津国伊丹と云うことでございます。(出所:著書『日本料理と天皇』より一部抜粋)

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