御所に運ばれます御氷というものは、主(もん)水司(どのつかさ)(現在でいう水道局長官に相当)の清原朝臣一族が代々管理する氷室のものと限られており、御所の西北部、鷹峯から京見峠を駆け抜け、更に山深く入りますとやっとこさで辿り着くのが氷室集落でございます。また、『延喜式』には山城国、大和国、河内国、近江国、丹波国の計10ヵ所、21室の氷室が御所御用に定められており、特に「愛宕郡栗栖(くるす)野(の)氷室」のものは真夏まで貯蔵できる技術をもっていたことから、天皇家の供御として、奈良時代から明治五年の氷出しを最後に千年以上をも御氷を作り続けてきたのであります。

氷室が最初に登場致しますのが『日本書紀』(第十六代仁徳天皇の項)でございまして、「(中略)熱き月に當(あた)りて水(みず)酒(さけ)に漬(ひた)して用(つか)ふと。皇子即ち其の氷を將(も)ち來(き)て、御所に獻(たてまつ)る。天皇歡(よろこ)びたまふ。自(こ)是(れより)以後(のち)、季冬(しはす)に當(あた)る毎(ごと)に、必ず氷を藏(おさ)め、春分(きさらぎ)の始(はじめ)に至りて氷を散(あか)つ」とあり、難波京にて仁徳天皇の供御として御氷が上がったことが記されております。おそらく讃良氷室(河内国讃良郡)の御氷かと。平安時代になりますと、『延喜式』(主水司の項)に「凡(およそ)供御の氷は、四月一日に起(はじ)めて九月卅(ぐわつ)日(にち)に盡(つ)きよ。其(そ)の四月・九月は日(ひ)別(ごと)に一駄(だ)〔八顆(くわ)を以て(も)駄(だ)と爲(な)し、一石二斗(いっこくにと)に準ぜよ〕、五月・八月は二駄四顆、六月・七月は三駄。進物所(しんもつどころ)の冷料(さましれう)に五月・八月は二顆、六月・七月は四顆。御醴(おんあまざけ)酒(さけ)並に盛所の冷料に六月・七月は一顆」と記してあり、天皇の供御の他、避暑の冷料として、または食材保管の冷料としても用いられたことが伺えます。宮中における氷室始めは四月一日から九月三十一日迄。清少納言の『枕草子』(第三十九段)には「あてなるもの。薄色に白がさねのかざみ。削り氷にあまずら入れて、新しき金椀に入れたる。水晶の数珠。藤の花。梅の花に悠紀の降りかかりたる。いみじう美しき児のいちごなど食ひたる」とあり、甘葛煎(あまづらいり)を削り氷にかけ、今で云う「みぞれ氷」を食していたのでございましょう。また、御飯に氷水を注いだ「水(すい)飯(はん)」は、平安貴族にとって夏場の食欲減退の折には欠かすことの出来ない一品でございまして、『源氏物語』(常夏)でも「いと暑き日、東の釣殿に出でたまひて涼みたまふ。(中略)‹さうざうしくねぶたかりつる、折よくものしたまへるかな›とて、大御酒参り、氷水召して水飯など、とりどりにさうどきつつ食ふ」や、藤原道長の『御堂関白記』では、「寛仁二年四月廿日。参大内、御風発給、是日来依召氷他」とあり、御氷ばかりを好み食した第六十六代一條天皇は風邪を召されたという記されていた。このように、真夏の御氷というものは貴族社会において大変好まれていたことが伺えます。また、旧暦6月1日は室町幕府が定めた「氷の朔日」でございまして、宮中では「氷室の節会」が催され、天皇が群臣に御氷を与える節会がございました。この時、御氷の欠片をかじることで暑気祓いを致しましたことから、之に由来し7月1日には「水(み)無月(なづき)」という三角形に外郎(ういろう)菓子を食するようになったのであります。

そもそも氷室における御氷作りというものは、陽当りの良い南側斜面に穴を5m程掘り、その斜面上側に樋(とい)で雪を積もらせ、昼間に解けた「雪解け水」を穴に流し入れることで夜間何日をもかけて凍らせたものでございます。よく別の池や田んぼに水を張り、その溜り水を凍らせた御氷を氷室で貯蔵したと云われておりますが、そんな無茶苦茶な御話はございません。ここ氷室の御氷と云うものは天皇が口になさる御氷でありますから、肥しで耕した田んぼの汚い溜り水なんぞで御氷は作りません。自然のものは神々のものであり、天皇のものであります。それ故に天の雪を溶かし、夜間じっくりと育て上げた御氷こそが、氷室集落の人々が作る御氷であり、天皇が唯一御口付けをなさる御氷なのでございます。冬場に凍りました御氷は、一度取出されまして、穴底に榧(かや)を敷き、御氷を榧で覆い、更に土で埋め込むことで暑い夏まで貯蔵されます。御氷の切出しには、神職にて御祈祷をした後、鋸をもって人が担げる程度の大きさに切出します。それを、万物を構成する六界(地・水・火・風・空・識)を示す「六角形」に調える。この氷室集落での氷出しというものは、旧暦6月1日と定められておりまして暑い真夏に毎日担ぎ運んだもの。山深い奥地にございますから、御所までは険しい山道を人の足で駆け抜けるしか他ありませんでした。よく馬に担がせ運んだといわれておりますが、馬が駆け抜けられるような山道は無く、山賊に襲われるような細道ばかりでしたから、碌な衣類は纏わず、皆裸一貫で運ばれたものでございます。御所に到着致しますと、運び役の役夫は御用商人が用いる中立売御門から入り、宮中の清所門へ届けられたのであります。

また、この氷室に関する記述というものは、明治五年の最後の氷出しをした後、代々主水司を務めた清原家は離職し、その元で御氷作りをしてきました集落内の十三家は皆百姓へ戻ったおりに、文献一切を燃やしたのであります。以降、十三家の者々は氷室に関することを一切語らずにて今日まで至りましたので、その少ない情報を元に学者さんらは多くの諸説を立てたものであります。京都の者はそう簡単には語らないのでありましょう。(出所:著書『日本料理と天皇』より一部抜粋)

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